2020年5月22日
ファッションで個性を表すことの意味
私たちが自分の個性を語るときに、ファッションは重要な自己表現の一つとなります。自分の着る服=自分の個性と言っても過言ではありません。
広辞苑で「個性」を調べてみると、下記のように説明されています。
①個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質。
②個物または個体に特有な特徴あるいは性格。
私たちがファッションを語るとき、個性と不可分であることは自明のごとく扱われています。しかし、ショップには似たようなデザインの服が並び、街には似たようなコーディネートの人たちがあふれています。
個性を求めてオシャレをしているはずが、似たような服装をすることになる。。。私たちにとって、ファッションで個性を表すとはどういうことなのでしょうか。
ひと昔前の例を挙げると「アムラー」と呼ばれる、安室奈美恵さんをリスペクトしたスタイルが流行りました。多くの女性が彼女の生き方やスタイルにあこがれて、自己のアイデンティティをそこに求めて、自己表現として厚底靴に茶髪ロングヘアー、細眉毛になどの恰好をしていました。
(※2010年頃以降、スマホとSNSの発達で情報の民主化が進み、安室奈美恵さんのような強力なカリスマは生まれにくくなっているのかもしれませんが、それはまた別のお話で。)
こうして考えると、ファッションにおける個性は、ファッションの中心部にいるカリスマにとっては、「他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質」が価値を持つのに対し、ファッションの周縁部にいる大多数の人たちにとっての「個性」は、カリスマへ同化することで、自分のアイデンティティーを表現しているのだと思います。
私はここで、こうした同化による「個性」を批判するつもりはありません。憧れの存在に自分を同化させたいという願望は、多くの人が持つ自然な欲求の一つだと思いますし、そうした考えもその人を形成する個性の一つだと思います。
そもそも、私は「他と違うこと」それ自体には、あまり価値を見出しておりません。例え人と同じものでも、それがその人が望んだもの、本当に好きなものであれば、その方が価値があると思います。例えば、ケーキ屋さんに友人と入ったとき、たまたま食べたいものが同じだったときに、人と違うことに価値を求めて、一番好きなケーキを選ばないのは意味がないと思うのです。
いま私たちは消費社会の中で沢山のモノに囲まれて生き、さまざまなファッションを楽しむことができます。
しかし、同時に何を選んでも、何を手に取っても、それは他の誰かも選んだり手にしたものばかりです。
だから人と違うことのみに自分の個性を見出すよりも、「自が好きなものを他人を気にせず選ぶこと」が重要だと思います。そうして出来上がった個性は、その人にしっくり合ったものとなり、自分の生き方をそして自分のファッションを楽しめると思います。
参考文献 北山晴一氏「モードの権力」